認知症の母とデイサービスの変化|介護度が上がり、週3回通うようになった理由

母がデイサービスに通い始めて数か月。最初は「楽しい」「運動ができた」と笑顔が見られていたが、2023年秋頃から少しずつ変化が現れた。
時間や曜日の感覚が曖昧になり、夜中に「仕事に行かないと」と言い出すことも。認知症の進行に加え、生活リズムが崩れていったのだった。

認知症の症状が表に出始めた頃|進行に気づけなかった後悔

母の認知症は、母も私も気づかない間に、緩やかにそして確実に進行していた。

2023年の秋の初め、もっと地域の人と交流が持てるようにケアマネージャーさんが近所の公会堂でやっている体操を紹介してくれた。母も喜んで行くことにした。初日、会社を休んでついて行こうかと思っていたが、ケアマネさんが付いて行くと言ってくれたので任せた。

仕事から帰って、どうだったか尋ねると、嬉しそうに「違う曜日に手芸もやってるの!来週行くことにした!」と報告してくれた。
かねてから手芸を習いに行きたいと言っていたから、地域の趣味サークルでも、ものすごく喜んでいた。
そして手芸に行った当日、嬉しそうな返答を期待して、「どうだった?」と尋ねたのだが。

「作れんかった。できんかった。」

と、泣きそうな顔で言った。「できんって?どういうこと?」と尋ねたら、作品を見せてくれた。

大好きな布花作りなのだが、花びらを組み立てるどころか、型紙に合わせて布が切れていない、テープが巻けていないのだ。見せてくれたものは、子供が作った方がマシなくらいなものだった。

「え?!冗談でしょ?」信じられなかった。
「本当なの。。。」その言葉に私も泣きそうになった。

母は、布花を作るのがとてもうまく、妹の結婚式で売り物と遜色ないドレスに合わせた上品なブーケや髪飾りを作ったのだ。妹は友人たちに「母に作ってもらった」と嬉しそうに自慢していた。
遜色ないどころか売っていた時期もある。部屋にもたくさん飾ってある。なのに。。。

しかし、その時私はその事実を否定した。「まだ練習したらできるようになるよ」と母にも自分にも言っていた。
甘かった。事実に対して、私の認識は甘かった。この時もっと母をケアしていればよかった。
母のショックは相当のものだったのに、気持ちを汲んでやれなかった。

そして、10月に県外の母の妹(叔母)の所に遊びに行き、長年仕事でゆっくりできなかったからと10日ほど母ひとり滞在した。6月に、やはり県外の伯父の家に同様の理由で10日ほど滞在していたので、さほど心配はしていなかった。
叔母は母のことを心配して、ものすごく良くしてくれた。
しかし、母は今までしてきた様に、妹に色々してあげたいのにできない自分に対して、ジレンマとストレスを強く感じた様だった。手芸の心の傷が癒えていなかったから余計に。。。

帰宅して、爆発した。激しいせん妄、感情の激昂。昼夜逆転。時間や曜日、日にちの感覚がなくなった。
明らかに認知症が進行したのだ。

これをきっかけに本格的な介護が始まった。

日常生活にも支障が出る様になり、私はどうすればいいのかわからず、しばらく呆然と日々を過ごした。

私の骨折で突き付けられた「人介護」の限界

年が明け、介護申請の更新日が来た。介護認定が「要支援1」から「要介護1」に変わっていた。
更新のために面談をしたのは覚えているのだが、いつの間にか介護度が上がったという感じだった。
受けられるサービスが増えることは嬉しいが、介護度が進んでいる現実を受け止めるのは、なんとも複雑な心境だった。

一時、どうすればいいのかわからなくなったが、徐々に落ち着いていった。
その中で、何かいい方法はないかと折り紙を提案してみた。毎日鶴を一緒に折った。やはり折れない。折り方を忘れたというだけではないのがわかった。

一緒に折って、隣で見本を見せても折れないのだ。最初からできない。
「三角に折って」と、見せながらやっても「こう?」と言って、斜めにずらして折る。
何度行っても同じ様にできない。認知機能の欠落とはこういうことなんだと、考えさせられた。
それでも、数ヶ月ほぼ毎日折り続けた。
そんな日々が続いたが、一人介護について、深く考えさせられることが起きた。

2024年3月に私は転倒して、右足を骨折、左足を捻挫。両足負傷したのだ。いや~間抜け。
手術するほどのではなかったが立てないので、医師から「1週間ほど入院するか?」と打診されたが、母の介護があると入院は拒否した。仕事は2ヶ月休職した。

復職までの2か月間、最低限の家事をするのみで、母と二人それぞれの部屋で寝る毎日を過ごした。幸い、まだ母は一人で入浴も着替えもなんとかできていた。
ご飯と洗濯だけ頑張ればよかった。掃除、片付けは目を瞑った。見ないことにした。買い物は生協や宅配に頼った。

と言っても限界はあり、色々な人に助けてもらったのも事実。
友人に細かい買い物を頼んだ。叔母達に食事を送ってもらった。少し動ける様になってから、私の妹に来てもらって、色々手伝ってもらった。

激痛にたえながらの介護は想像以上に厳しく、改めて「一人で抱え込む危うさ」を考えさせられる出来事だった。

母のストレスも大きなものとなっていっていた。
休職中、2回ほど出勤したのだが、その晩は決まってせん妄が激しくなった。睡眠も1時間おきに起きて家の中を歩きまわる様になっていた。

母の骨折で一気に変わった生活|毎日デイサービスを利用した夏

状況がさらに悪化したのは、2024年7月。今度は母が外出先で転倒し、左手首を骨折したのだ。

母にとって生まれて初めての骨折だ。骨折の痛みはなんとも言えない。
母は痛みにより混乱し、目を離すことができなくなった。

腫れが引くまで手術ができず1週間ほどギプスで対応していたのだが、「こんなものがあるから痛いんだ!!」と喚いて、ギプスをはずし放り捨てること2回。
「あんたもこんなに痛かったの?」と言って泣き、「こんなに痛いって言ってなかったっ!聞いてない!」と当たり散らすのは毎日。

これまで以上に、昼も夜もなくなり、せん妄が激しく常に見ていないと何をするかわからなくなった。
私は極度の睡眠不足に陥ったが、それでも自分の骨折から復帰して間もないので、それほど休むこともできず、日中はデイサービスを頼ることにした。

ケアマネと相談し、手術前後の約2週間は毎日デイサービスを利用
その後は、要介護1での利用が可能な範囲「週3回の」利用をすることに決めた。

ケアマネやデイサービスのスタッフの支えと職場の理解があったからこそ、私は何とか仕事と介護を続けられた。

まとめ:支援のかたちは、母と私で少しずつ変わっていく

介護が続く中で、「支援の形」は常に変化していく。
母の認知症が進み、私自身も体を壊した経験を経て、「頼ること」は決して弱さではないと学んだ。日々の人との繋がりがいかに大事な事か考えさせられた。
デイサービスの回数を増やしたこと、施設を変えたこと——それは、“母と私が生活を続けるための選択”だったのだと思う。

ただ、この頃から母は夜中に何度も起きるようになり、私の睡眠時間はほとんどとれなくなっていった。

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました